二枚橋地区公民館の山側に急傾斜対策として、釣屋浜方面に向かって高度な技術力を駆使して頑丈に石が積み上げられている。
石が積み上げられた部分の一角が「釣屋浜駅」の予定地で、今は原野状態で面影がないが存在していたら農林水産業や人的交流等への波及効果があったろうか。
塩釜神社方面を左側に見て歩くと国道279号線に、ここにも一連のアーチ橋があったが交通に支障をきたすことから取り壊しされ橋桁のみが残されている。
釣屋浜の住宅地と急傾斜地の間をすすみます。
赤い肌の岩山に木野部トンネル入口が見えますがコンクリートで閉鎖されています。この建設にどれ程の苦難があったのか、しばし黙祷です。
左側には津軽海峡が広がっています。完成されていたら車窓から磯の臭いとアワビ漁の風景が見られたのに残念です。
今回、この区間を歩いてアーチ橋以外に時の流れと環境の変化にも耐え、歩んだ歴史の重みを語りかけ証明しているものがあった。民有林と鉄道用地の境界標識として表面を少し焼き腐食防止策を施した「枕木」です。
鉄道跡地にはこんな記憶が残っています。
小学生時代は:田植えの時期になれば友達数人で弁当を背負い竹ざおにバケツを持って、湯坂下地 域にあった沼でのフナ釣りに何度も出かけた「冒険の道」であった。夏はイカ釣り漁のはしけを終えたあと父親が舵取りする船に乗り、湯坂下岸壁からこの道を父親と歩いた「絆の道」であった。秋は大畑祭りに友達ときんぱ食堂で支那ソバを食べ、帰りは歩きながらブドウを食べた「満腹の道」であった。
中学生時代はスクールバスも無く毎朝6時50分に自宅から兎沢の中学校まで歩いた「語りの道」。
高校時代は朝一番のバスで大畑駅に行き、帰りは部活を終え最終列車で帰ったが防犯灯もない「獣道」を空腹と不安のなかで帰宅した。
大畑へは多少時間がかかるが孫次郎間地域を通れば行けたのに、何故か悪路、不安を知りつつも歩き続けたのは、この道を通して故郷が「つながり」「伝わり」「むすび」ついていたのではとの思いを新たにした歩きだった。
歴史を証明する地域遺産であり地域資源でもある大間鉄道を、風化させることなく保存と活用を念頭に次世代に引き継ぎたいものだ。
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