河口から源流まで85キロメートルの多摩川。所用で都内を訪れる度に川崎市多摩区中野島に滞在し多摩川を眺めていたがようやく河口を目指しての歩きが実現した。老若男女が歩き・走り・自転車で健康増進、通勤道、サッカー少年の応援隊ママチャリ軍、時折聞こえるトランペットの音色等など・・・限られた空間を有効利用している様を見聞きしながらの歩きがスタートです。
午前6時57分「中野島の渡し」1885(明治18)年、旧中野島村と対岸の旧下布田駅他2村で開設。対岸との往来、東京への野菜・梨・桃などの出荷、下肥の運搬などに利用、昭和10年代中頃に廃止。河口まで25キロメートル地点。
登戸駅に向かう小田急線を見上げながら進む。
午前8時30分 花火で御馴染みの二子玉川「二子の渡し」 二子と瀬田を結ぶ旧大山街道の渡し。かっては大山詣りや江戸からの物見遊山客で賑った。タバコ、鮎、炭など相州の物産も渡った。1925(大正14)年、二子橋開通で廃止。
午前9時01分「下野毛の渡し」 江戸時代初期、洪水で下野毛村が分断され、飛び地が生まれた。対岸へ耕作に通うほか、神奈川と東京とを結ぶ交通にも用いられた。1955(昭和30)年に廃止。
午前9時14分 河口まで15キロメートル地点(10km走破)
程、歩けば2000(平成12)年に多摩川さくらの会等々力土手桜植樹記念で植樹されたオオシマザクラ通りで和みの休憩。
午前9時40分「丸子の渡し」 始まりは江戸時代初期とされ、江戸と平塚の中原を結ぶ中原街道にかかる渡し。平塚のお酢や相州の物産も渡った。1935(昭和10)年の丸子橋架橋で廃止。
河口から10キロメートル地点。
川崎市街地が近づき、周辺に立並ぶ高層ビル・・・・・眺めているのはいいが住みたい?
午前11時20分「六郷の渡し」 家康が架けた六郷大橋は元禄元年(1688)7月の大洪水で流され、以後、実に200年の間、渡し舟の時代が続き、舟をおりて川崎宿に入ると街道筋は賑やかな旅籠街
午前11時34分 河口から5キロメートル地点で、遠くに船が見え海が近いことを。
初夏かの照り付けで肌は赤く焼け、程よい疲れもあって川崎の潮風と香りは次回に持ち越しとし、川崎駅に向かって旧東海道を歩く。
それぞれの渡し舟のなか、東海道ではどんな世間話が交わされていたのか想像するだけでワクワクするテクテク歩きであった。また、過去と現在そして未来に繋げる活動をしているNPOと川崎市の努力がテクテク歩きの私に何かを投げかけ伝えようとしていることを真摯に受け止め生かさなければ。
川崎駅構内で飲むアイスコーヒーの美味しさが心地よさを倍加させ、次回は河口か源流か。
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