いつものリュックサックに着替えと水と筆記用具を入れて、川崎市多摩区中野島から生田の緑地を抜け小田急線の読売ランド駅・百合ケ丘・新百合ケ丘と一足早い春の陽光を浴びながらの歩きです。心地よさに誘われるように新百合ケ丘駅近くのコーヒーショップへ足を運び、潮風の香りは加味されていないものの足早に動く人それぞれの人生の香りを楽しむ味は、喉越しに違和感は無い。
新百合ケ丘駅を後にして数分の場所にあった十二神社(正徳元年「1711」建立以来、万福寺地区の氏神様で「食物の神様」であり、保食の神と記され、五穀を司る神といわれている。)健康に合掌。
津久井道にもどり百合ケ丘を過ぎ、読売ランド駅手前の道を左折し読売ランド内にあるジャイアンツ球状を目指してのこと。何、これは・・・・・・何と偶然の出合「二枚橋」です。
川崎市麻生区にある高石町会が設置した看板に「二枚橋の由来」~治承4年(1180年)の秋、源頼朝が平家を滅ぼそうと旗揚げをした折に、弟の義経が奥州の平泉から弁慶や伊勢の三郎・駿河の次郎たちを従えてかけつける途中ここを通りかかり当時の橋が粗末なものであったので、弁慶たちが馬も通れる橋に造りなおした。その橋は丸太を並べた上に土を盛ってあり、横から見るとのし餅を二枚重ねたように見えるので二枚橋と名付けられた、といういい伝えが残っている。
川崎市では「弁慶の足跡を探して」と題しての探訪が行われているようですが、青森県にも義経の北行説の伝説があり当二枚橋地域の隣接地域にもその伝説が語られている。
自身のふるさと「二枚橋の由来」は~朝夕の明けぬ前に起きて大きな吊鍋をかけて、その中に精米と稗か粟を三対七位にして焚いて精米の分は沖に働く男達に持たせ、稗や粟は家に残る子供達や年寄達が食べたということです。この鍋を二枚鍋といい、それからもじって二枚箸となり、更に地形から二枚橋と名付けたといわれている。また、一説によれば部落には上・下狄川があって物資の流通運搬のために、それぞれの川に二枚の木橋を懸けたのが地名になったとも伝えられている。
「二枚橋つながり」で人・食・文化・他の地域資源等で首都圏と地方が互いに連携して交流の輪を広げ地域活性化を促進する策はないものか、一度、川崎市麻生区の地域振興課を訪ね聞く・話すことで生かされる何かを学ぶことも必要なのでは。
ふるさとを想いながらジャイアンツ球場を後にし、三沢川を泳ぐ鯉を横目に見ながら帰路についたが、出合えた偶然が疲れを楽しさに変えてくれた一日であった。
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