2009年9月アーカイブ

商品紹介(5)

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メガネの絵をケースの片隅に刺繍した和柄(やだら縫い)と洋柄のメガネケースです。

開閉口はバネ金具を使用していますので出し入れが簡単で携帯に便利です。

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                (和柄 1個 1,380円) (洋柄 1個 1,100円)

 

 

 

 

ヒマワリが東向きで太陽を浴び、秋桜「コスモス」が秋風に揺れ、きれいに草刈されたバス待合室。小さな親切でこんな空間を毎年のように楽しませてくれる方に感謝です。

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秋の日差しを受けいつもの里山コースを歩けば、葉が3枚の「ミツバアケビ」が紫色で果実が熟してポッカリと口を開けています。(熟して果実の口が開くので、あけ実から「アケビ」が由来したと言われています。) 幼少の頃は友達と数を競って採取し、熟していないものは米びつの中に、取れたては家族で食したものだ。甘い味は今でも最高です。

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今度は「サルナシ」、通称「コクワ」です。サルナシはサルや熊の大好物で、特にサルが我を忘れて食することから名付けられたと言われている。まだ熟していないがキウイフルーツに似た味がする。人間だけへの恵みでないし、いずれサルが食するに来るだろうから見るだけに。

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今度は「さんしょう」です。すがすがしい香りと、ピリットした辛さが大好きです。今年はさんしょう(粉末)の試作品づくりに挑戦です。

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休憩を兼ねての採取したものを天日干しです。

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今度は「やまぶどう」です。奥山に入らなくても今年は多く見かけます。採取して食します。酸味があって美味しい。このやまぶどうより一回り小さい「エビヅル」は、今はほとんど見かけないが「小ぶどう」と呼んでいて甘酸っぱい味がしていたことを思い出した。

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様々な色を持ち合わせています「野ぶどう」食べれません。見るだけに。

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最終コースの草むらを歩けば「はたけしめじ」です。(匂いのまつたけ)に対して(味のしめじ)と言われるくらい味噌汁、油いためなど実にうまい。

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気持ちよく歩いて、最後に自然の恵みをいただけることに感謝です。

残念なことに恵まれた自然から学び、そして遊ぶ機会さえない環境が現実にあることが寂しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

里の秋(1)朝焼け

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太陽が水平線から顔を出さないうちから、尻屋崎の空が濃いピンク色からオレンジ色に。

一般に「夕焼けは晴れの兆候」に対して「朝焼けは雨の兆候」と言われることが多いようだが地域によって異なるとか。

一瞬だったが津軽海峡を彩色した光景は実に美しく感動です。早起きのお陰。

反面、夕焼けの方がもっと美しい色彩で地域と津軽海峡・北海道恵山が浮かびあがるのだが久しく見たことがない。

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赤とんぼが飛び交うなか赤川地区公民館をスタートです。

公民館左側の「八幡阪」を登ると小赤川林道があり、その山手に「赤川八幡宮」が鎮座しています。まずは安全祈願の合掌。

(赤川八幡宮~祭神:誉田別命「ほんだわけみのみこと」応神天皇 例祭:10/14-15 天正2年「1574』勧請とあり大畑町では最も古く創建された神社であり、綴り浜の後方断崖の上に小祠を建てた言われ「綴崎八幡宮」とも呼ばれていた。男水神と女水神を奉載して家門が繁栄するよう祈願した神社で、現在の社殿は昭和60年10月14日大改築したもの)

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特別養護老人ホーム延寿園、くろもりの郷を過ぎれば林道沿いの左側に小赤川が流れ砂防ダムが見えます。かってこの川の上流で享保16年「1731]に硫黄を採掘し、寛政年中「1789~1801」に採掘を再興したといわれ、現在もその形跡が見られる。

しばらく歩けば右側に大きなカーブがありますが「けたの阪」と呼ばれる山道を歩き体力を温存、再び林道に出てミズナラの木陰から太陽が差し込む光景を見ながら進むと、林道が二路に分かれますが左側に100メートル程のところで左折して山林へと入ります。この区域が国有林と民有林の境界線になります。

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ここからは「尻くべ阪」と言われる急な坂を下ります。ヒバ林のなかを川の流れと音を見聞きながら進めば、5年ぶりの対面です。

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緑に囲まれた静けさの中で変わらぬ存在感と神風が舞っているかのような空気と冷気に包まれ時の流れを忘れている。来てよかった。

*滝の中段の洞の前に立っている二つの石の奥に川や沢を鎮めるための「不動」があると言われています。

*この赤川の滝を紀行家の管江真澄「宝暦4年1754~文政12年1829」と大畑の文人村林源助も訪れています。

*滝の左側を登れば信仰の対象であった黒森山420メートルがあります。

 

 

 

 

 

 

 

ヒラツメガニ

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昭和30年代の生活・自然環境は地域の主産業であるイカ一本釣漁業が大きくかかわっている。

朝日が昇る頃には、前沖での漁を終え浜から100メートル程の沖合いに停船する。今度は浜から磯舟をこぎ、網袋に入れたイカを受け取るにいく。この「はしけ」という作業は私の役目で、少々の高波でも風を読み、波を知り、磯舟を操る技術を身につけたのも、父の背中を見て学んだ財産の一つです。

浜に着けばイカさき、さいたイカは丸かごに入れて波際の海水で洗い、洗ったイカは夏場は「塩イカ」に・秋は「スルメイカ」と夜遅くまでの作業が続いた。当時の砂浜はイカ干しに欠かせない「スダレ」と「わら縄カーテン」で、歩くことさえ容易でなかった。

このイカが生活を支え今日の私達がある。

また、イカは私達だけでなく沿岸に生息する魚・ガニ等にも恩恵があり、現在失いかけている循環型の自然環境があった。大げさな言い方かも知れないが足の踏み場もないくらい大きく丸々とした「ヒラツメガニ」がいた。今は遠い昔話です。

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ガニ漁は6月頃から、夕方に磯舟で「ガニたも」と呼んだ道具を等間隔に投げ込み、少々の時間経過後に順次引き上げる「流し漁」と、碇を下ろし停船状態で「ガニたも」を投げ入れる二通りの方法で漁をしていた。漁の場所探しと確保には子供ながらの経験が必要だった。

大漁したとき、大きな鍋を囲んで食べた味は今でも忘れることが出来ない。

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今は砂浜から重りをつけたナイロンの網にイカか魚を餌にして投げ釣りで釣っている。収穫は?

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小さく見える船はガニ漁でなく、刺網漁です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

商品紹介(4)

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○ペンケース

  プチフラワーのボタンを2個付けて、可愛い人参の刺繍入りのペンケースです。

  旅や趣味の記録のおともにいかがですか。

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                                             (1個 600円)

 

 

 

 

 

商品紹介(3)

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○セカンドバック

  ちょっと大きめのトートバックの中の物を整理整頓するのに手頃なサイズです。

  ワンポイントの刺繍や布の切替部分にも刺繍を入れてみました。

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                                          (1個 1,000円)

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自宅の窓から朝日が差し込んだ後の秋雨も晴れ易国間漁港前からのスタートです。

風間浦中学校(海峡の里スポーツ公園)、「沢の黒海岸」「蛇浦」「アワビ増殖センター」と歩いてきたが、この海岸沿いは地域資源である「フ海苔」を生かした体験ツアーや後継者育成を目指した磯体験学習魚場等の貴重な自然遺産が残っているが、漂流・漂着ゴミが気になる。

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海峡市場ばんやからは防風対策に植えたと思われる松林ロードが続き、山手には1997年5月、同年12月から稼動している風力発電設備2基が地域振興、エネルギー、温暖化対策に寄与している。

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坂道を下れば大間町です。

「津軽海峡に夢かける。大間~戸井17,5キロメートル、本州北海道連絡橋の実現」の看板、昭和42年11月1日建立の「むつはまなすライン」石碑、大漁旗で出迎えている「ふるさと物産センター」そして山側には、平成10年2月28日竣工、同年3月27日に大間町、風間浦村、佐井村の3町村からなる北通りの人々を対象とした「文化」「教育」「健康」及び原子力に係る知識向上を目指す、複合型文化施設「ウイング」があり、その1,5キロメートル先に北通りを一望出来る展望台がある。

終点を目指し最後の歩きは同じ津軽海峡でも強く違う走りの「風」を真正面に受けての歩き旅です。

大間病院、佐井方面・大間市街地への十字路を過ぎ坂道を下れば終着・発の道南自動車フェリー株式会社が経営する、津軽海峡フェリー乗場に到着です。(約11キロメートルの旅)

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心地よい汗に思わず小さな万歳です。

早掛公園からの一人旅を通して、旅(歩き)した満足よりそれぞれの集落が耐えに耐えての日々を過ごしているような空気を感じたのは私だけだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魚道

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平成8年8月18日に旧大畑町と二枚橋町内会が連名で、下北地域県民局(むつ土木事務所)に地域内を流れる下狄川に生息・溯上する魚類の資源保護と保全に配慮した施設(魚道)整備を要望したところ、平成8年11月6日から3ヵ年計画で進入路、魚道、広場を含めた砂防施設整備工事が実施された。

完成後の広場に二枚橋小学校児童が「わくわく親水広場」と名付け、自然景観と野鳥の鳴き声を聞きながらの憩いの空間と、環境教育の場として利活用されている。

この建設要望の背景には昭和56年7月に土石流危険渓流の指定による砂防ダムの竣工がある。

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アメマスが見えます。

イワナの降海型をいう。降海型は孵化してから1年半程成長すると春に海へと降海し沿岸域で大きく成長し、3~5年程で成熟後9月~11月頃に川へと上がり産卵する。産卵後は死なずに海に戻る固体が多いとか。

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県外(関東方面)から度々渓流釣りを楽しんでいる姿を見かけることがある。

 

 

 

 

よこいし(横石)

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故郷の原風景を語るとき必ずと言っていいほど話題にあがるのが「よこいし」

海岸から30メートル程の沖合いに不動の位置を確保し、どんな自然条件にも耐えそして居座り、永きに亘り地域の人々を見守ってきた石を「よこいし」と呼んでいる。

この石は見方によっては富士山に似ていると私は思う。特に、満潮時に頭を見せている時の姿は石富士そのものです。見ている場所は何県?

又、この石は子供が成長していく中での登竜門の役割を果たしていたのでは。最初は干潮時に歩いてたどりつき、次は満潮時に泳いでたどりつき一呼吸後に泳いで帰る、次は満潮時に泳いでたどりつき石の上にあがる、次は石からダイビングし潜水したまま海岸にたどりつく。

これが出来るようになれば自信が深まり遠泳のスタート、潜水しての海中散歩とウニ採り、アブラメ・タナゴ釣り、めかぶ採り等の体験学習の拠点として遊びながら生きる術を学んでいた。

反面、自然の猛威と恐怖も体にたたき込まれているし、万物は自然に生かされていることの再確認。

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潮流の変化等により砂山ができ川水が直流できず蛇行しています。

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商品紹介(2)

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○柿のオーナメント

  みちのくの「秋」

 和布のハギレを利用し、中に綿をつめ干し柿のイメージで作りました。

 玄関や居間などの壁掛けにして飾ってみてはいかがですか。

                      (1個 800円) (2個 1,500円)

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商品紹介(1)

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○イカのオーナメント

  イカの町「大畑」

  この特産物が砂浜に足の踏み場もないくらい、カーテンのように天日干しされていた頃をイメージして古着で作って見ました。

  違う色のイカが並んで、ちっちゃい目がかわいいでしょう。

                                      (1個 680円)

 

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木野部峠

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北通りの難所「木野部峠」は今から200年以上前の文化年代に大畑村赤川と風間浦下風呂の村人が人足として請負い苦労の末開通させた。以後昭和10年9月には下北乗合自動車株式会社がバス運行を開始したものの、維持管理等苦難の記録が残されていると聞いている。この旧道は一部は林道等として使用されながら現在も残っている。(次回に記載)

木野部峠は大間鉄道とも大きな係わりを持っている。大間鉄道(着工1937「昭和12」年)は軍事が大きな目的であったがそれだけでなく、下北北通地方の経済発展と生活向上に向かっての大きな希望であったが労働力と建設資材不足等で建設中止に追い込まれ、ついに1943(昭和18)年12月に希望の灯火が消えた。

大間鉄道の工事が中止された後の1947(昭和22)年に下北バス株式会社が鉄道省か木野部トンネルの通行権を与えられた。

木野部トンネルは大間鉄道の第二期工事として着工され、釣屋浜から木野部に向かって長さ430メートル程の第一トンネル、この第一トンネルは直線であったため暗さはそれ程感じることなく歩いた記憶がある。このトンネルを抜けると100メートル程は雄大な津軽海峡と赤い岩礁を見ることができた。こんどは850メートルの真っ暗い曲線トンネルで、その中間点には「メガネ」と呼んだ灯りとりの場所があり、その真上を高さ20メートル程の滝があった。流れ落ちている場所は入り江になっていて父と磯舟で漁に出かけたときの休憩地で、そこで食べた「飯ごう飯」「アワビ」「ウニ」そして流れ落ちる「水」の味は今でも忘れることのできない。

ここから先のトンネルを進むに1メートル程の棒切れを、トンネル内のコンクリートに触れさせて自分の位置確認をしながら、暗さの恐怖と冷気に耐えて進んだ記憶がある。

現在、このトンネルは釣屋浜、木野部側とも安全上からコンクリートで閉ざされ周辺も岩礁崩壊している。~「戦争・文化遺産」忘れ去られるのか。

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旧道・木野部トンネルに変わって1959(昭和34)年10月3日に峠が新県道として開通。

以後、1970(昭和45)年4月1日には県道むつ大間線が国道279号に昇格し、1959(平成8)年から急カーブ、急勾配区間の解消を目的とした(二枚橋バイパス4,1キロメートル)改良工事行われ直線化し一部供用開始している。(直線化により急カーブ山側、海側とも4箇所が残存)

現在の木野部峠区間における下北交通バス停留所は「釣屋浜」「木野部峠」「赤岩」の3箇所で、一日8便が運行されている。

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現在は国道279号橋梁整備(二枚橋2号橋)工事がH.20.9.1からH.22.2.,28まで、工事費247,800,000円で施工されている。

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この木野部峠には様々な思い出があります。

1 春から秋までは坂道を利用してのハードなトレーニング場所であったこと。

2 冬期間は山スキーで楽しんだ場所であったこと。(木野部峠に釣屋浜の人々が畑を耕した「長坂」  と言う場所)

3 アケビ、山ブドウ、コクワなど自然の恵みが待ち遠しかった場所であったこと。

4 見渡す絶景による癒しの場所であったこと。

気がかりは、昔も今も人家から離れた場所であることから「ゴミのポイ捨て」が多いこと。美しい自然を次世代に残すには一人一人の小さなやさしさの実践。

遠くに黒森山が見えます。(ここは北見台で手前に木野部峠のバス停留所が有ります)

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津軽海峡夏景色

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先般、所用で新川崎駅から横須賀線で鎌倉に向かう電車のなかで「津軽海峡夏景色」を見に行こうという看板を見つけ、嬉しさが全身を包み込んだ。是非、来訪して体感していただきたいものです。

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鎌倉駅前で用事を済ませ、江ノ電で江ノ島まで。少し坂道のある通りを抜けると、東浜海水浴場・ヨットハーバー・江島神社等を散策したが、故郷の津軽海峡とは「色」「匂い」「風」等に違いがあるものの、生命の根源である海の大きさ・強さ等の魅力を再確認できた。

海はすばらしい。海を見ながらの昼食はイカの丸焼きに生ビール、妻は隣でかき氷。

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