カテゴリ:下狄川を歩く

辛抱強く

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今年は初日の出に手を合わせることも出来ず、しかも太陽の陽射しを受けたのも2月20日頃からで来る日も来る日も雪かきに追われたものの、過ぎてみれば少雪の冬であった。

この影響で1ヶ月近く早く雪投げ場であり作業道・ウォーキング場でもある護岸敷地の雪割りと砂浜への排雪作業に汗を流す日々が続いています。

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温暖化の影響もあり、桜前線の北上が例年以上に早まるようだが、海を取り巻く環境は素直に喜べる状況ではなく苦難続きのようだ。

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                                   *津軽海峡磯場で「ふのり」採取

陽はまた登りそして沈む、諦めて動かないより、動いて辛抱強く待つことに。

 

 

下狄川を歩く(1)

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 下狄川(しもえぞがわ)は河川法により管理されない市が管理する普通河川で、水の源は佐藤ヶ平国有林に降る雨・雪が地下に浸透し、気が遠くなる時間を経過後に湧き出した所を水源として豊富な森林栄養分を運び、海と陸をつなぎ生物の多様性と生きる力等に大きく貢献しているのではと思う。この源流を見てみたいという思いを何年も持ち続けようやく実現可能な時が来たいま、新たな出発と出合いにワクワクしています。

目の前に広がる海原の津軽海峡は、領海の幅が通常の12海里から3海里にとどめられた国際海峡(特定海域)です。「日本国内には津軽海峡・宗谷海峡他3」 交通手段は北海道と本州を結ぶ鉄道専用の青函トンネル「海峡線」、函館港と青森港を結ぶ青函航路、函館港と大間港を結ぶ航路に旅客船、貨客船、貨物船等が運航されていますが、この経済不況と物価高等の影響で経営の存続が危惧されています。

また経済圏域の拡大・交通のスピード化・文化交流・生活道路・避難道路等としての側面から津軽海峡大橋構想が要望、議論されて来ましたが技術・資金・環境・景観などの課題が多く実現の目処は立っていない。

潮流は日本海を北上する対馬海流の一部が津軽暖流となり、北からの親潮(寒流)・南からの黒潮(暖流)が交錯する一大漁業拠点で、定置網(沿岸の魚の通り道に網を設置しておいて「サケ」「イカ」などを誘い込む)による網おこしやマグロ、ブリの一本釣りなどが日々行われています。

海峡の地形は氷期に大河のような水路部が中央に、しかも東西に伸びていたことにより本州と北海道側では鳥類や哺乳類等の分布が異なることに気づいたことから、動植物分布上の境界線として「プラキストン線」が設定されています。海峡の沿岸線は生物多様性保全の観点から、環境省が下北半島沿岸北部を「コクガン」の飛来地として、日本の重要湿地500に選定しています。

気の遠くなるような時間を刻んできた津軽海峡の姿を日々見るたびに思います。異常気象等による高波・津波・強風による猛威と恐怖による破壊力と強さ、また静けさのなかでの朝日・夕焼け・風・波音による優しさと包容力の体感、加えて海・磯からの豊かな恵みを食するたびに自然の偉大さと大きさの中で人間が生かされていることを痛感する。

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川上に向かって歩くと国道279号「二枚橋橋梁S33,3竣工」が走り、その20メートル先に旧大間鉄道遺産のアーチ橋があります。

この大間鉄道は下北の砂鉄・水産物・林産物の資源の輸送と国防上の重要拠点である大間に軍事資材運搬のために下北駅から大間迄を結ぶ鉄道として計画されたが、戦争悪化により大畑駅から大間までは末成線である。その中で昭和17年に二枚橋地内に完成した7連のアーチ橋が、土木・歴史・戦争遺産として厳しい自然環境と老朽化に耐えながら存在感を固持している。しかしながら周辺住民の生命と財産に被害や危険が及ぶ事態は加速的に進行している中で、旧大畑町時代に二枚橋町内会が撤去要望書を提出(S61/62)以来、議会でも議論されたが未だ撤去か記録保存かの方向性さえ見えない。

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このアーチ橋の川周辺はかって蛍が乱舞し、鮎の遡上が見られ食材の洗い場、保存食を備蓄した蔵屋敷、脱穀、製粉した水車小屋があり、井戸端会議と言うより川端会議で絆を深めた生活そのものの原風景があったが、度重なる自然災害・上水道が整備(S42,9)されたことを契機に、豊かさと利便性の追求へと生活環境が様変わりした。

以後。昭和63年から平成2年まで二枚橋小学校を核とした世代間交流で、勤労生産学習の一環として「ジャガイモ」からでん粉を取り出す作業で一時活気を見たものの、環境異変による自然災害・生活雑排水による水質汚濁等に対する意識の高まりもあり、川・水辺に対する遊空間や親近感が薄れてきている。後に地域のボランティア団体が水質調査を実施した経緯があるが問題はなかった。

この川は土石流危険渓流として昭和54年に砂防指定地となったことにより、河口から300m上流に砂防ダムが建設された。(S54,9着工しS56,7竣工・堤高7.5m、堤長72.0m、貯砂量14.200㎥)しかし、この建設により川から海への土砂供給を止めることにより海岸線の侵食や、海への養分やミネラルの供給を妨げることから海が痩せて海草、魚、貝などの生育が妨げられること等の悪影響が心配されており、森林の育成等を含めた総合的な自然環境保全対策を官民一体となった継続的取り組みが必要なのでは。

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魚道です。(9月15日の日記参照)

 砂防ダム・魚道施設周辺南側一帯の山林は、大正2年4月10日に売買により浜田半次郎が取得し、同年5月15日に杉本三郎他19名が一部売買し登記簿上は「浜田半次郎他20名」の共有財産であるが、相続・贈与・売買が発生しても所有権移転登記手続きが一切行われていないため、税負担の徴収等に支障をきたしていたが、平成7年に二枚橋町内会長(池田正利)、事務担当者等が現地踏査、確認、測量を行い個人持分48分割の成果品をの残しているが、二枚橋バイパスの用地買収手続きや固定資産の課税等に関する課題が未だ残されている。

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静かに流れる川の音を聴きながら上流に向かって歩くと、戦後まもなく植林した杉林の民有林と広葉樹林が広がる国有林境界に到達です。

この場所付近に来ると、昭和30年代に家庭燃料として国有林内の立木を営林署から購入し、幾日もかけて切り倒し薪専用の「そり」に積んで数キロ離れた民家付近まで、家族総出で運び出す作業をしたことを思い出す。この作業で玉の汗を流す親父のたくましい背中から強さを学びながら、自然の中で時間を過ごせた満足感もあり、つらい、きついと思ったことはない。

時には吹雪いて先が見えず「そり」とともに崖下に転落した苦い経験もあるが、作業の休憩、昼食でたべた「おにぎり」「イカすし」「たくあん」「ごま餅」「そば餅」の味は、現代社会のコンビニ弁当にはない汗・たくましさ・絆・充実感に自然という調味料が加味されて美味かった。

巡り巡って、昭和47年、平成7年に国有林と民有林付近の山林調査する機会があり、何か不思議な因縁を感じたながら歩けば少量の水が流れている場所がある。かって水量も多く「ニホンザリガニ」が生息していて、友達と味噌を持って採取にきたが今は地形と環境変化により生息出来るような場所でなく、何か寂しいかぎりです。

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さらに上流を目指して歩きます。

久々の対面です。「下狄川の滝」です。

滝つぼで大物の岩魚を狙い、時間の経過を見て滝上部で流れ落ちる音を聞きながら一休みの場所。

地域資源である滝に名称の公募をして国土地理院の地図や国有林班図に載せたいものだ。周囲の景色、鳥の声、枯葉のささやきなど、最高の時間を過ごしています。

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